大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

東京高等裁判所 昭和60年(行ケ)76号 判決

原告

住友電気工業株式会社

被告

特許庁長官

主文

特許庁が昭和58年審判第24816号事件について昭和60年3月4日にした審決を取り消す。

訴訟費用は被告の負担とする。

事実

第1当事者の求めた裁判

1  原告

主文同旨の判決

2  被告

「原告の請求を棄却する。訴訟費用は原告の負担とする。」との判決

第2請求の原因

1  特許庁における手続の経緯

原告は、昭和55年7月25日、昭和51年12月28日出願の昭和51年特許願第159132号からの分割出願として、名称を「被覆高速度鋼の製造法」とする発明(以下「本願発明」という。)につき特許出願(昭和55年特許願第102659号)をしたが、昭和58年10月5日拒絶査定を受けたので、同年12月6日審判を請求し、昭和58年審判第24816号事件として審理された結果、昭和60年3月4日、「本件審判の請求は、成り立たない。」との審決があり、その謄本は同年4月4日原告に送達された。

2  本願発明の要旨

高速度鋼に対しPVD法によりチタンの炭化物もしくは炭窒化物の被覆膜を形成せしめるに際し、予め600度C以下の温度でチタンの窒化物を0.1μ以上2μ以下の厚みに被覆した後、600度C以下の温度でチタンの炭化物もしくは炭窒化物を被覆する事を特徴とする被覆高速度鋼の製造法。

(別紙図面(1)参照)

3  審決の理由の要点

1 本願発明の要旨は、前項記載のとおりである。

2 一方、昭和49年特許出願公告第18685号公報(以下「第1引用例」という。)には、① 高速度鋼等切削工具の表面にTiCを被覆する際に母材と表面TiC層との間に両者の中間硬度を有する硬化層を形成すること、② その硬化層の厚さは1~200μ程度であること、③ TiC被覆層や中間層の形成手段は自由に選択でき、例えば化学蒸着法、真空蒸着法、プラズマジエツト法等適宜採用できること(別紙図面(2)参照)がそれぞれ記載されている。また、昭和50年特許出願公開第51913号公報(以下「第2引用例」という。)には、超硬合金の表面の全部又は一部にTiNを被覆した上にさらにTiCを被覆することが記載されている。

3 そこで、本願発明と第1引用例記載の発明とを比較すると、前記③の真空蒸着法等はPVD法に相当するから、両者は高速度鋼に対しPVD法によりチタンの炭化物(炭化チタン、以下「TiC」という。)の被覆層を形成せしめるに際し、予め中間層を1~2μ程度被覆した後TiCを被覆する点で一致するが、本願発明は、該中間層をとくにチタンの窒化物(窒化チタン、以下「TiN」という。)とした点、及びTiN並びにTiCの被覆を600度C以下で行う点において、これらについて明確な記載のない第1引用例記載の発明と相違する。

次に、これらの相違点について検討する。

中間層をTiNとした点(相違点(1))について

第1引用例には中間層として「母材とTiCとの中間硬度を有する硬化層」と限定され、5つ例示されているが、TiNは記載されていない。しかし、TiNは一般に切削工具用母材とTiCとの中間の硬度を有すること、先に示した第2引用例には高速度鋼と類似の組成を有する切削工具用母材である超硬合金にTiC層を形成するに際し、予めTiNを被覆することが明記されていることから、高速度鋼を母材とする切削工具にTiCを被覆するに際し、中間層として予めTiNを被覆することは、当業者ならば容易に想到し得る事項と認められる。

TiN及びTiCの被覆を600度C以下で行う点(相違点(2))について

第1引用例には前記被覆手段は自由に選択できPVD法も適宜採用し得ることが明記され、これは第2引用例の場合も同様である(第2頁第12行ないし第19行)。そして、PVD法が採用されれば一般に処理温度はCVD法より低く600度C以下で行われるから、本願発明のように600度C以下で行うことは、当業者が適宜なし得る事項と認めざるを得ない。

4  以上のとおりであるから、本願第1発明は第1引用例及び第2引用例の各記載に基づいて当業者が容易に発明をすることができたものであり、特許法第29条第2項の規定により特許を受けることができない。

4  審決の取消事由

審決は、本願発明と第1引用例記載の発明とを対比判断するに当たり、第1引用例記載の技術内容の認定を誤り、さらに両発明の相違点(1)及び(2)の認定、判断を誤つた結果、本願発明は第1引用例及び第2引用例記載の各発明に基づいて当業者が容易に発明をすることができたとしたものであるから、違法であつて、取り消されるべきである。

1 第1引用例記載の技術内容の認定の誤り

審決は、第1引用例には、高速度鋼等の切削工具の表面にTiCを被覆する際に母材と表面TiC層との間に両者の中間硬度を有する硬化層を形成すること、その硬化層の厚さは1~200μ程度であること、及び「TiC被覆層や中間層の形成手段は自由に選択でき、例えば化学蒸着法、真空蒸着法、プラズマジエツト法等適宜採用できること」が記載され、この真空蒸着法等は本願発明にいうPVD法に相当するから、本願発明と第1引用例記載の発明は、「高速度鋼に対しPVD法によりTiCの被覆層を形成せしめるに際し、予め中間層を1~2μ程度被覆した後TiCを被覆する点で一致する」と認定した。

第1引用例には、審決認定のようなTiC被覆層や中間層の形成手段に関する事項(発明の詳細な説明の文言によれば、「TiC表面被覆層や中間層の形成手段も自由であつて例えば化学蒸着法、真空蒸着法、プラズマジエツト法、吹付法、脱炭法、硫化法等が適宜採用できる。」((第2欄第30行ないし第33行)))が記載されていること、及び真空蒸着法がPVD法の1種であることは認める。

しかしながら、第1引用例記載の発明は、第1引用例の特許請求の範囲の記載から明らかなように、「表面にTiC層を有する切削工具において、母材と表面TiC層との間に、母材と表面TiC層の中間硬度を有する硬化層を形成した二重被覆層の切削工具」、すなわち、母材と表面TiC層の中間に硬化層を設けた切削工具である。

ところで、「硬化」とは、ある物質を硬くするという意味であるから、第1引用例記載の発明における「硬化層」とは、母材表面を硬化した層のことである。そして、第1引用例の実施例1では母材表面を脱炭することにより硬化層を形成し、実施例2では母材表面を浸硫処理することにより硬化層を形成している。このように「硬化層」とは、母材の一部を硬化することにより形成される層である。第1引用例に記載された形成手段のうち、右の意味の中間の硬化層を形成できるのは、脱炭法と硫化法のみである。化学蒸着法、真空蒸着法、プラズマジエツト法、吹付法では中間の硬化層を形成することはできない。後の4つの方法はTiC被覆層の形成手段とされているにすぎないものとみるべきである。そして、当業者であれば、第1引用例をみた場合、その文言にかかわらず、中間の硬化層の形成手段としてはこの後の4つの方法を除外して第1引用例記載の発明を把握するものと考えられる。

それゆえ、第1引用例には、中間の硬化層の形成手段としてPVD法の1種である真空蒸着法が開示されていることを前提として本願発明と第1引用例記載の発明は前記認定の点において一致するとした審決は、その前提において誤つている。

2 審決は、相違点(1)、すなわち、中間層として予めTiNを被覆する点及び同(2)、すなわち、TiN及びTiCの被覆を600度C以下で行う点について、第1引用例には、審決認定の技術内容が開示されていることを前提として、右(1)及び(2)は当業者において容易に想到し得る事項及び適宜なし得る事項であると判断した。

しかしながら、審決は、前記1のとおり、第1引用例記載の技術内容を誤認したものであり、相違点(1)及び(2)についての認定、判断は、この誤つた前提に基づくものであるから、誤りである。

仮に、審決の第1引用例記載の技術内容の認定に誤りがなく、本願発明と第1引用例記載の発明とは、高速度鋼に対しPVD法によりTiCの被覆層を形成するに際し、予め中間層を1~2μ程度被覆した後TiCを被覆する点で一致しているとしても、相違点(1)及び(2)についての審決の認定、判断には誤りがある。以下、その理由を詳述する。

(1)  相違点(1)についての認定、判断の誤り

本願発明の目的は、600度C以下のPVD法によるTiC又はTiCの炭窒化物(炭窒化チタン、以下「Ti (C, N)」という。)被覆の高速度鋼に対する接着強度(密着性)の向上にある。このことは、本願明細書の発明の詳細な説明中に、「しかしながら、高速度鋼が焼鈍されない200~600度C以下の温度範囲に於て炭化チタンまたは炭窒化チタンを被覆した場合高速度鋼と被覆膜の接着強度が工具用としては不充分である事が試験の結果判明した。しかるに、試験の過程に於て、窒化チタンの場合は600度C以下の低温でも、実用に耐える接着強度を有する事を発見した。」(本願明細書第3項第13行ないし第20行、昭和59年12月19日付手続補正書第2頁第5行、第6行)と記載されていることから理解できる。そして、本願発明は、その目的達成の手段として「予め600度C以下の温度でチタンの窒化物を0.1μ以上2μ以下の厚みに被覆」する構成を採択したものである。

これに対し、第1引用例記載の発明の目的は、低速加工時の表面TiC層の潤滑性及び脆さに基づく耐磨耗性の低さの向上にあり、本願発明の前記目的とは相違する。このことは、第1引用例の発明の詳細な説明中に、「従来、例えば超硬合金や工具鋼よりなる母材の表面にTiCのような硬質層を設けた切削工具は知られていた。しかしてこの表面被覆は潤滑性を有し高速切削の場合には優れた耐磨耗性を発揮するが極めて短かい断裂型切粉の出るような低速加工では潤滑剤としての役目が発揮されず且つ脆いために耐磨耗性の点で充分な硬化が得られない。そこで本発明では潤滑性の大きいTiCを表面層とし、母材とTiC表面層の中間硬度を有する特に硬化された層を表面層と母材との間に設けて、(中略)利点をもたらしたものである。」(第1欄第25行ないし第2欄第4行)と記載されていることからも理解できる。

なお、第1引用例の発明の詳細な説明中には、熱膨脹係数の差異に基づくTiCの剥離防止のために中間の硬化層を設けたとする記載(第2欄第12行ないし第24行)も存するが、これは本願発明の目的とする600度C以下の低温における母材(高速度鋼)とTiCとの接着強度の向上とは別の問題である。すなわち、前者は単に応力緩和の問題であるのに対し、後者は金属組織学的問題である。

また、第2引用例記載の発明の目的は、母材である超硬合金表面の脱炭の防止にあり、本願発明の前記目的とは相違する。このことは、第2引用例の明細書の項の発明の詳細な説明中に、「従来のTiCを単に被覆した超硬合金では、被覆の際に母材超硬合金の表面が脱炭されやすい。(中略)母材超硬合金に厚さ10μm程度の脱炭された中間層が生じ、中間層の組成物は(中略)いわゆるη相(通常Co3W3C)となることが多い。(中略)本発明は前記の欠点を除去した表面被覆超硬合金を提供するものであつて、超硬合金の表面の全部または一部にTiNを被覆し、前記被覆の上にさらにTiCを被覆してなることを特徴とする表面被覆超硬合金を内容とするものである。」(第1頁左下欄第18行なしい右下欄第14行)と記載されていることから理解できる。なお、この靱性の低い、いわゆるη相の発生を避けることと本願発明における接着強度の向上とは無関係である。

このように、本願発明と第1引用例及び第2引用例記載の各発明とは、それぞれ目的を異にし、第1引用例及び第2引用例には、いずれも本願発明の目的を示唆する記載すら存しない。しかも、本願発明は、高速度鋼に対してはCVD法(化学蒸着法)は欠点を有するという知見に基づき、PVD法によるTiC被覆の高速度鋼に対する接着強度の向上を目的としたのに対し、第1引用例記載の発明は、このような目的には全く気付くことなく、表面被覆層や中間の硬化層の形成手段として化学蒸着法を挙げ、実施例1において厚さ2μ程度のTiC層を化学蒸着法により形成することを開示している。第2引用例記載の発明も同様であつて、第2引用例はこの発明の好適な実施例として、CVD法(化学蒸着法)に基づいて、TiN及びTiCを被覆すること(第1頁右下欄第15行ないし第2頁左上欄第7行)を開示している。

さらに、審決は相違点(1)について判断するに当たり、「第2引用例には高速度鋼と類似の組成を有する切削工具母材である超硬合金に(中略)を被覆することが明記されている」と認定しているが、高速度鋼と超硬合金とはその組成を異にし、性質も異にしている。すなわち、高速度鋼の組成は鉄を70%以上含み、これに、炭素、珪素、マンガン、リン、イオウ、クロム、タングステン(通常品は5%、最大でも18%)、バナジウム等を添加した鉄を主成分とする鉄合金であるのに対し、超硬合金はタングステンを約70%ないし90%以上含み、これに炭素やコバルトを添加したタングステンを主成分とするタングステン合金であり、両者は組成を異にしている。そして、高速度鋼と超硬合金は、基本的に異なる物質であるため、その特性は次のように異なつている。

高速度鋼 超硬合金

比重(g/cm) 8.7 10.7~15.1

ビツカース硬度 800 1300~2000

抗折力(kg/mm2) 200~420 120~190

熱膨脹係数(×10-6) 11 5~6.5

また、高速度鋼と超硬合金は特性を異にするため、切削工具として用いる場合も、高速度鋼は50~70m/分以下の低速切削に用いるが、超硬合金の場合は70~200m/分の高速切削に用いる。

このように、高速度鋼と超硬合金は組成・特性・用途が異なるため、両者に適用する技術についても、対象に即して適用する必要があり、例えば硬化を目的に母材に表面処理を施す場合、第1引用例に開示された脱炭法は超硬合金には適用できるが高速度鋼には適用できず、逆に硫化法は高速度鋼に対してのみ適用でき超硬合金には適用できない。また、第2引用例の実施例には1000度Cで被覆を行うことが記載されているが、これは超硬合金であるがゆえに成り立つのであり、高速度鋼においてかかる技術を適用すると高速度鋼本来の性質を失うことになる。

以上のとおり、本願発明と第1引用例及び第2引用例記載の各発明とはそれぞれ目的(技術的課題)を異にし、かつ、本願発明の対象とする高速度鋼と第2引用例記載の発明の対象とする超硬合金とは組成・特性・用途を異にしているから、第1引用例記載の発明における高速度鋼を母材とする切削工具にTiCを被覆するに際し、中間層として予め第2引用例に開示されたTiNを被覆することは、当業者にとつて容易に想到し得る事項ではない。

被告は、第1引用例には中間の硬化層としてセラミツク層が例示され、TiNは広義のセラミツクの1種と考えられるから、中間層としてTiNを被覆することは第1引用例及び第2引用例の記載事項に基づいて当業者が容易に想到し得る旨主張するが、TiNは広義のセラミツクには含まれるが、第1引用例にいうセラミツクには含まれない。けだし、切削工具に関する分野では、セラミツクはアルミナ(Al2O3)を主成分とする材料を意味するからである。

(2)  相違点(2)についての認定、判断の誤り

本願発明と第1引用例及び第2引用例記載の各発明はそれぞれ目的(技術的課題)を異にすることは、前記(1)において述べたとおりである。

そして、従来技術においてPVD法による処理温度には極めて広い幅があつた。すなわち、被覆切削工具において重要なことは母材と被覆層の密着強度であるが、PVD法の場合、処理温度を高くするほど密着強度が高くなるため、当業者の間では処理温度を上げることが技術常識であつた。また、第1引用例記載の発明と同一の出願人の出願に係る昭和48年特許出願公開第32733号公報には、超硬合金の表面被覆法として、密着強度を上げるために母材に被覆層を形成した後さらに800~1200度Cで加熱処理する技術が記載されている。

これに対し、本願発明は、予めTiNを被覆するという特殊な方法をとつているため、はじめて600度C以下という温度で密着強度の強い被覆高速度鋼を製造し得たものであり、PVD法が採用されれば一般に処理温度はCVD法より低く600度C以下で行われるとした審決の認定は誤りである。

したがつて、当業者において、本願発明と目的を異にする第1引用例及び第2引用例記載の各発明に基づき、PVD法の処理温度を600度Cより低い温度に限定することは適宜なし得る事項ではない。

第3請求の原因に対する認否及び被告の主張

1  請求の原因1ないし3の事実は認める。

2  同4の審決の取消事由は争う。審決の認定、判断は正当であつて、審決には原告の主張する違法はない。

1 第1引用例記載の技術内容の認定について

第1引用例には、母材と表面TiC層との中間に両者の中間硬度を有する硬化層を設けた切削工具が記載され、この中間の硬化層として放電硬化層、Co基合金層、硫化物層のほかに自溶合金(コルモロイ層)及びセラミツク層が明示されているが、前3者が主として母材の表面を硬化した層であるのに対し、後2者は母材とは異なる材質の硬化層である。また、その形成手段として母材の表面を硬化した層を形成するための脱炭法や硫化法が開示されているが、第1引用例には、ほかに、化学蒸着法、真空蒸着法、プラズマジエツト法、吹付法が開示されており、これらはいずれも母材の表面を硬化する手段とはいえず、むしろ母材と異なる材質の硬化層の形成手段といえるものであり、右形成手段のうち真空蒸着法はPVD法に相当するものである。

この点に関し、原告は第1引用例記載の発明における中間の硬化層及びその形成手段としては、実施例に記載された母材の表面を硬化する層及びその形成手段(脱炭法及び硫化法)のみに限られ、発明の詳細な説明に例示された他の層及びその形成手段(化学蒸着法、真空蒸着法、プラズマジエツト法、吹付法)は除外すべき旨主張する。

しかしながら、一般に明細書に記載された発明は単に実施例に記載された発明に限られるものではなく、発明の詳細な説明を含む明細書全体の記載に基づいて把握されるべきであるから、第1引用例記載の「硬化層」とは母材表面を硬化した層のみならず、母材とは異なる材質の硬化層をも包含する概念と解すべきである。

2 原告は、審決は第1引用例記載の技術内容を誤認したものであり、相違点(1)及び(2)についての判断はこの誤つた前提に基づくものである旨主張するが、第1引用例記載の技術内容についての審決の認定には誤りがないことは、前記1のとおりであるからこの点に関する原告の主張は理由がない。

また、相違点(1)及び(2)についての審決の認定、判断は、次に述べるとおり正当である。

(1)  相違点(1)の認定、判断について

本願発明も第1引用例記載の発明も二重被覆層を有する切削工具に関する技術であり、母材と表面TiC層との間に介在する中間層は両者の接着にあずかり、所定の接着強度を要求されることはこの層構造を保つ上で当然である。確かに、第1引用例にはこの発明の目的として「接着強度」の向上について明記されていないが、第1引用例記載の発明も本願発明と同様二重被覆を有する切削工具に係るものである以上、接着強度の向上をその目的として内包していることは明らかである。

また、第2引用例記載の発明は、その母材である超硬合金の脱炭を防止するものであるが、この脱炭層は靱性の低い、いわゆるη相の発生を避けるものであり(第1頁右下欄第6行ないし第9行)、該相の発生による母材と被覆層との剥離を防止し、結局両者の接着の向上を目的とするものである。

したがつて、本願発明と第1引用例及び第2引用例記載の各発明とは、その発明の目的において実質上差異がない。

また、第1引用例には、中間の硬化層の形成手段としてPVD法に相当する真空蒸着法等が開示され、形成される硬化層として母材と被覆層との中間硬度を有する自溶合金層及びセラミツク層が例示され、特に本願発明のTiNは広義のセラミツクの1種と考えられるから、中間層としてTiNを被覆することは第1引用例及び第2引用例の記載事項に基づいて当業者が容易に想到し得るところである。

高速度鋼と超硬合金とは、確かにその成分組成に差異があるが、共にタングステンを多量に含有する合金であり、切削工具等工具鋼として主に用いられるなど共通するところが多く、第1引用例の切削工具においても「母材の組成には特に制限はないが一般にはWC―Coのような超硬合金又は工具鋼等が使用され、」(第2欄第25行、第26行)と並記され、実施例2にはその工具鋼として高速度鋼(SKH4合金)が例示されているように、両者は互いに近接した技術であるから、第2引用例の超硬合金に関する技術を本願発明の高速度鋼に応用することに格別困難性はない。

(2)  相違点(2)の認定、判断について

本願発明と第1引用例及び第2引用例記載の各発明とは、その発明の目的において実質上差異がないことは、前記(1)において述べたとおりである。

そして、PVD法による処理温度は高温から低温まで幅広い範囲にわたり、比較的低目の600度C以下で行うことも極く普通のことである。また、PVD法は化学反応を要しないからCVD法よりも処理温度は一般に低くてよく、PVD法を採用する本願発明において600度C以下で行う点に格別な技術的困難性はない。

第4証拠関係

証拠関係は、本件訴訟記録中の書証目録記載のとおりであるから、ここにこれを引用する。

理由

1  請求の原因1(特許庁における手続の経緯)、2(本願発明の要旨)及び3(審決の理由の要点)の事実は、当事者間に争いがない。

2  そこで、原告主張の審決の取消事由の存否について判断する。

1 成立に争いのない甲第2号証によれば、第1引用例記載の発明は高速切削加工にも低速切削加工にも広範囲で有効に利用される切削工具に関する発明であつて(第1欄第20行ないし第22行)、第1引用例の発明の詳細な説明には、「従来、例えば超硬合金や工具鋼よりなる母材の表面にTiCのような硬質層を設けた切削工具は知られていた。しかしてこの表面被覆は潤滑性を有し高速切削の場合には優れた耐磨耗性を発揮するが極めて短かい断裂型切粉の出るような低速加工では潤滑剤としての役目が発揮されず且つ脆いために耐磨耗性の点で充分な効果が得られない。そこで本発明では潤滑性の大きいTiCを表面層とし、母材とTiC表面層の中間硬度を有する特に硬化された層を表面層と母材との間に設けて、高速加工では表面TiC層の潤滑性を充分に利用し低速加工の場合にはTiCの潤滑性も利用はするが同時にTiC層と母材との間に設けられた高度の耐磨耗性を有する層によつても切削が行われるように二重の被覆層を形成し以て切削工具としての利用範囲を拡大する利点をもたらしたものである。」(同欄第25行ないし第2欄第4行)、「本発明によると高速度切削の場合にはTiCの有する秀れた滑性と耐磨耗性とのために切削性能がよいことは勿論、低速切削の場合においても中間層の存在により熱膨脹係数の差異等に基づくTiCの剥脱する欠点が少ないため耐磨耗性がよく発揮され、また、たとえ一部脱落しても中間硬化層が切削に有効であるから、そのために例えば、実施例1にも示したように同一処理材について250m/min程度の高速切削にも、また、10m/minのような低速切削の場合にも何れにもよく利用され」(同欄第12行ないし第22行)ると記載されており、第1引用例記載の発明の実施例2にはその工具鋼として高速度鋼(SKH4合金)が例示されていることが認められる。

第1引用例の右記載事項によれば、第1引用例記載の発明は、従来の超硬合金又は工具鋼(高速度鋼を含む。)より成る母材の表面にTiCのような硬質層を設けた切削工具においては、高速切削の場合は優れた耐磨耗性が発揮されるが、低速切削の場合は、表面層は潤滑剤としての役目が発揮されず、かつ、脆いため耐磨耗性の点で充分な効果が得られないという欠点を改善することを目的(技術的課題)とし、この目的を達成すべく、母材と表面TiC層との間に、母材とTiC層の中間硬度を有する硬化層を形成する構成を採用したものであつて、この中間の硬化層の形成により、高速切削の場合に、TiC層の有する秀れた潤滑性を十分に利用し、耐磨耗性を維持するのみならず、低速切削の場合にも、TiCの潤滑性を発揮させ、また、熱膨脹係数の差異等に基づくTiCの剥脱を防ぎ、耐磨耗性がよく発揮され、たとえTiCの一部が脱落しても中間の硬化層が切削に有効に働くという作用効果を奏するものである。

そして、前掲甲第2号証によれば、第1引用例記載の発明における中間の硬化層(「その厚さは材質および使用目的により相違するが例えば1~200μ程度」((第2欄第9行ないし第11行)))は、右の目的を達成することができる性質、作用を有するものであればよく、このような観点から、第1引用例の発明の詳細な説明には、「中間の硬化層としては例えば放電硬化層、Co基合金層、硫化物層、自溶合金(コルモロイ)層、セラミツク層等が利用される。」(同欄第27行ないし第29行)と記載され、また、この中間の硬化層の形成手段については「TiC表面被覆層や中間層の形成手段も自由であつて例えば化学蒸着法、真空蒸着法、プラズマジエツト法、吹付法、脱炭法、硫化法等が適宜採用できる。」(同欄第30行ないし第33行)と記載されていること(第1引用例に当該趣旨の記載のあることは原告の認めて争わないところである。)、が認められ、右形成手段のうち真空蒸着法がPVD法の1種であることは当事者間に争いがない。

原告は、「硬化」とは、ある物質を硬くするという意味であるから、第1引用例記載の発明における「硬化層」とは、母材表面を硬化した層のことであつて、第1引用例に例示されている中間の硬化層の形成手段としては、化学蒸着法、真空蒸着法、プラズマジエツト法、吹付法は除外して読むべきである旨主張する。

しかしながら、第1引用例記載の発明の前記認定の目的、作用効果からみると、第1引用例記載の発明における中間の硬化層は前記認定のような性質、作用を有するものであればよく、第1引用例が例示する自溶合金(コルモロイ)層、セラミツク層等が母材と異なる異質の層であることは技術常識上明らかであつて、右中間の硬化層を母材表面を硬化した層と限定して解することはできないから、原告の右主張は理由がない。

したがつて、第1引用例には、高速度鋼等切削工具の表面にTiCを被覆する際に母材と表面TiC層との間に両者の中間硬度を有する硬化層を形成すること、その硬化層の厚さは1~200μ程度であること、及び「TiC被覆層や中間層の形成手段は自由に選択でき、例えば化学蒸着法、真空蒸着法、プラズマジエツト法等適宜採用できること」が記載され、この真空蒸着法等はPVD法に相当するから、本願発明と第1引用例記載の発明は、「高速度鋼に対しPVD法によりTiCの被覆層を形成せしめるに際し、予め中間層を1~2μ程度被覆した後TiCを被覆する点で一致する」としていた審決の認定に誤りはない。

2 原告は、審決は、第1引用例記載の技術内容を誤認し、この誤つた前提に基づいて、本願発明と第1引用例記載の発明との相違点(1)、すなわち、中間層として予めTiNを被覆する点及び同(2)、すなわち、TiN及びTiCの被覆を600度C以下で行う点について認定、判断したものであるから、この認定、判断は誤りである旨主張する。

しかしながら、審決には、第1引用例記載の技術内容の認定についての誤りの存しないこと、前記1において述べたとおりであるから、この点に関する原告の主張は採用することができない。

原告は、さらに審決の第1引用例記載の技術内容の認定に誤りがなく、本願発明と第1引用例記載の発明とは審決の前記1認定の点において一致するとしても、相違点(1)及び(2)についての審決の認定、判断には誤りがある旨主張するので、まず相違点(1)について検討する。

成立に争いのない甲第4ないし第6号証によれば、本願明細書の発明の詳細な説明には、従来、高速度鋼に対してTiC、TiN又はTi (C, N)を被覆し、耐磨耗性の向上を図るためCVD法(化学蒸着法)が用いられてきたが、このCVD法では900~1100度Cの高温で反応させなければならないことから高速度鋼が焼鈍されてしまい、被覆後に焼入れ、焼戻しを行う必要があり、そのため被覆膜に亀裂を生じたり、剥離したり、寸法が変化したりして、安定した精度の良い製品を製造することが困難であり、また、CVD法は反応の際高速度鋼表面層の炭素が被覆膜中に奪われ高速度鋼自体の性能が損なわれる欠点があつたこと(甲第4号証明細書第1頁第12行ないし第2頁第5行)、これに対し、PVD法(物理蒸着法)を用いれば高速度鋼が焼鈍する600度C以下の低い温度で被覆膜を形成することが可能になるが、高速度鋼に切削工具として適するTiC又はTi (C, N)の被覆を、PVD法で200~600度Cの温度範囲で形成させた場合には、高速度鋼と被覆膜との接着強度が工具用としては不充分であることが試験の結果判明したこと(同第2頁第11行ないし第3頁第17行、昭和59年12月19日付手続補正書第2頁第5行、第6行)、しかるに試験の過程において、TiNの被覆膜をPVD法で形成させる場合には600度C以下の低温でも実用に耐える接着強度を有することが判明したこと(甲第4号証明細書第3頁第17行ないし第20行)、この場合、TiNとTiC又はTi (C, N)の界面の接着強度もまた大きく、また、TiNからTi (C, N)を経てTiCまで連続的に組成を変化させることも反応ガス組成を連続的に変化させて容易に実施できること(同第3頁第20行ないし第4頁第4行)、そこで本願発明は、前掲発明の要旨のような構成を採用したことが記載されていることが認められる。

本願明細書の右記載事項によれば、本願発明は、高速度鋼にTiC又はTi (C, N)の被覆膜を形成するに際し、CVD法を用いるのでは反応温度を高くする必要があるため種々の支障が生じ、また、この支障を解消すべくPVD法を用いて高速度鋼の焼鈍温度以下の温度で被覆したのでは被覆膜と高速度鋼との接着強度が十分でないという欠点があることを知り、これらの欠点を改善することを目的(技術的課題)として検討する過程において、TiNの被覆膜を形成する場合には、高速度鋼の焼鈍温度以下の600度C以下の温度でもPVD法で実用に耐える接着強度の被覆膜を形成することができ、この場合、TiNとTiC又はTi (C, N)との界面の接着強度が大きいとの知見を得、これに基づいて、まず、高速度鋼の表面にPVD法により600度C以下の温度でTiNの被覆膜を形成し、次いでその上にPVD法により600度C以下の温度でTiC又はTi (C, N)の被覆膜を形成するという方法に想到したものである。

これに対し、第1引用例記載の発明の目的(技術的課題)は、前記1認定のとおりであるから、本願発明と第1引用例記載の発明とは、母材にTiCの被覆膜を形成するに際し、中間層を設けた点では一致するものの、その目的を全く異にすることが明らかである。

もつとも、第1引用例には「本発明によると(中略)低速切削の場合においても中間層の存在により熱膨脹係数の差異等に基づくTiCの剥脱する欠点が少ないため耐磨耗性がよく発揮され」と記載されていることは前記1認定のとおりであるが、右記載は、TiC層を被覆した切削工具の切削加工使用時の発熱に起因する母材とTiCとの熱膨脹係数の差異に基づく剥離を問題としているものであることはその記載内容自体から明らかであつて、本願発明における高速度鋼にPVD法で600度C以下の温度でTiCの被覆膜を形成させる際の被覆膜の接着性そのものの問題とは、問題の観点を異にするというべきである。

被告は、第1引用例にはこの発明の目的として「接着強度」の向上について明記されていないが、第1引用例記載の発明も本願発明と同様二重被覆を有する切削工具に係るものである以上、接着強度の向上をその目的として内包していることは明らかである旨主張する。

しかしながら、切削工具において、母材と被覆膜との接着強度が要求されることは一般論としてはいえるとしても、第1引用例記載の発明は、前記認定のとおり、従来の超硬合金又は工具鋼より成る母材の表面にTiCのような硬質層を設けた切削工具においては、低速切削の場合は、表面層は潤滑剤としての役目が発揮されず、かつ、脆いため耐磨耗性の点で十分な効果が得られないという欠点を改善することを目的(技術的課題)とし、その達成のために、中間の硬化層として例示した広範囲のものを設け、TiC被覆膜及び中間の硬化層の形成手段としても、本願明細書に高速度鋼の被覆手段として不適当なものと記載されたCVD法(化学蒸着法)を含む、挙示の広範囲の方法が適宜採用できるとしているのであるから、第1引用例には本願発明における高速度鋼にTiCの被覆膜をPVD法により600度C以下で形成させるに当たつて接着強度を向上させるためいかなる工夫を施すかの目的が開示され、あるいは示唆されているということはできない。

また、成立に争いのない甲第3号証によれば、第2引用例記載の発明は、特に切削工具の用途に用いて性能が良く、また、その製造が容易に確実に行われ得ることを特徴とする表面被覆超硬合金に関し(第1頁左下欄第9行ないし第12行)、従来のTiCを単に被覆した超硬合金では被覆の際に母材超硬合金の表面が脱炭されやすく、例えば四塩化チタン、メタン及び水素を含有する気相からWC基超硬合金にTiC被覆を施す場合に、母材超硬合金に厚さ10μ程度の脱炭された中間層が生じ、この中間層の組成物はいわゆるη相(通常Co3W3C)となることが多いので、この靱性の低いη相の発生を避けるために気相中の炭素含有率をTiC形成に必要な量よりも多くする方法が用いられるが、それでもη相を充分に少なくすることは困難であつたこと(同欄第18行ないし同頁右下欄第9行)、第2引用例記載の発明は右の欠点を除去した表面被覆超硬合金を提供するものであつて、超硬合金の表面の全部又は一部にTiNを被覆し、この被覆の上にさらにTiCを被覆して成ることを特徴とする超硬合金を内容とするものであること(同欄第10行ないし第14行)、この被覆方法の実施例として、気相から析出させる方法が開示され(同欄第17行ないし第2頁左上欄第7行)、さらに薄く均一に被覆できるならば、スパツタリングによる方法その他挙示のどのような方法をも用いることができるとされていること(同欄第12行ないし第17行)が認められる。

第2引用例の右記載事項によれば、第2引用例記載の発明は、超硬合金にTiC層を被覆する際には、その表面が脱炭され、η相になり靱性(材料の粘り強さ、すなわち衝撃によつて破壊されにくい性質)が損なわれるので、この欠点を除去することを目的(技術的課題)とし、この目的を達成するために超硬合金に予めTiN層を形成する構成を採用したものであつて、超硬合金を対象とする点で本願発明の高速度鋼とは相違するだけでなく、その目的においても、本願発明の前記認定の目的とは相違することが明らかである。

被告は、第2引用例記載の発明はその母材である超硬合金の脱炭を防止するものであるが、この脱炭層は靱性の低いη相の発生を避けるものであり、該相の発生による母材と被覆層との剥離を防止し、結局両者の接着の向上を目的とする点で、本願発明とその目的において実質的に差異がない旨主張する。

しかしながら、第2引用例記載の発明において、靱性が損なわれなくなることにより、超硬合金の表面が剥離しにくくなり、この剥離に伴うTiC被覆膜の脱落が防げるとしても、その対象は超硬合金であり、かつ、その被覆方法としては、本願明細書に高速度鋼の被覆手段として不適当なものと記載されているCVD法(第2引用例の実施例に記載された気相から析出させる方法がCVD法に該当することは技術常識上明らかである。)を含む前記認定の広範囲の方法が適宜採用できるとされており、このことは、本願発明における高速度鋼にPVD法で600度C以下の温度でTiC被覆膜を形成する際の高速度鋼とTiC被覆膜との接着強度(すなわち高速度鋼とTiC被覆膜との接合面の接着強度)を向上させることと目的を同じくするとはいえない。

しかも、成立に争いのない甲第12号証によれば、日本金属学会編「改訂3版金属便覧」(丸善株式会社昭和46年6月25日発行)には、鋼は鉄―炭素を基本とする合金であるところ、「高速度鋼を構成する主要元素はC、W、Mo、Cr、Vでその他Coが添加される場合もある。」(第790頁本文第2行、第3行)、「高速度鋼ではCは通常0.7~0.85%で高いものでは1.5%~1.6%程度のものもある。」(同頁本文第6行)と記載されていることが認められるから、高速度鋼は鉄を基本成分とするC、W、Mo、Cr、Vなどとの合金であるが、一方、超硬合金は金属炭化物粉末と金属粉末を適当に配合して焼結したものであることは技術常識上明らかであるところ、前掲甲第2、第3号証によれば、第1引用例にはWC―7%Coより成る超硬合金が実施例1として示され、第2引用例には、WC94.5%、Co5.5%より成る超硬合金が好適な実施例として示され、かつ、「本発明合金の母材超硬合金は、前記実施例のようなWC―Coが超硬合金が好適であるが、これに限らない。Co、Ni、Feのような結合材と、W、Ti、Ta、Nb、Mo、Cr、V、Zr、Hfの炭化物の1種または2種以上とを含む焼結合金であれば、炭化物の脱炭が阻止されて本発明の効果が現れる。」(第2頁左上欄末行ないし右上欄第5行)と記載されていることが認められ、これらの記載事項を総合すれば、本願発明の対象とする高速度鋼と第2引用例記載の発明の対象とする超硬合金とはその成分、成分割合が相違しており、合金として類似の組成を有していると認めることができない。

さらに、第1引用例記載の発明と第2引用例記載の発明との技術的関連についてみると、両者は、前記認定のとおり、その目的を異にし、前掲甲第2、第3号証によれば、第1引用例の実施例1においてはWC―7%Coの超硬合金の表面を脱炭させて中間の硬化層であるCo3W3C層を形成させ、その上にTiC層を形成させることにより切削性が向上すると記載されているのに対し、第2引用例記載の発明においてはTiCを被覆する際Co3W3C層(η相層)が中間層として形成されると悪影響があるとしてCo3W3C層の形成を防ぐべく、TiN層を設けていることが認められるから、この観点からみる限り両者は本来的に矛盾する技術といえるものである。

そうであれば、TiNは一般に切削工具用母材とTiCとの中間の硬度を有するものであるとしても、第1引用例記載の発明、すなわち本願発明における前記目的を示唆するものでもなければ、この目的を達成するために本願発明が採用した中間層をTiNとした前記技術的手段を開示するものでもない発明に基づいて、この中間層に、第2引用例記載の発明、すなわち、本願発明における前記目的を示唆するものでもなければ、第1引用例記載の発明ともその目的を異にし技術的に関連づけられるものでなく、かつ、本願発明の対象とする高速度鋼とは類似の組成を有するものとはいえない超硬合金にTiC層を形成するに際し、予めTiNを被覆する技術手段を適用して本願発明を得ることは、当業者にとつて容易になし得るところではないというべきである。

被告は、第1引用例には、中間の硬化層の形成手段としてPVD法に相当する真空蒸着法等が開示され、形成される硬化層として母材と被覆層との中間硬度を有するセラミツク層が例示され、本願発明のTiNは広義のセラミツクの1種と考えられるから、中間層としてTiNを被覆することは第2引用例の記載事項に基づいて当業者が容易に想到し得る旨主張する。

TiNが広義のセラミツクに含まれることは当事者間に争いがない。しかしながら、成立に争いのない甲第17号証によれば、榛葉久吉、三谷裕康「改訂増補粉末冶金学」(株式会社コロナ社昭和53年1月30日発行)第205頁には、切削工具材料としてのセラミツクの主成分はアルミナ(Al2O3)であると記載されていることが認められるから、第1引用例の例示するセラミツク層もアルミナを主成分とするものを意味すると解されるのみならず、本願発明は単に母材とTiCの中間の硬度を有する中間層を設ければよいというものではなく、前記認定のとおり、第1引用例記載の発明とは異なる、TiC被覆膜の接着強度の向上を目的として、高速度鋼にTiC被覆膜をPVD法で600度C以下の温度で形成させるに際し、中間層としてTiN被覆層をPVD法で600度C以下の温度で形成させるものであるから、被告主張のように単にTiNが広義のセラミツクの1種と考えられているとの理由をもつて本願発明におけるTiN被覆層の形成が当業者において容易に想到し得るものとすることはできない。

また、被告は、高速度鋼と超硬合金とは、共にタングステンを多量に含有する合金であり、切削工具等工具鋼として主に用いられるなど共通するところが多く、両者は互いに近接した技術であつて、第2引用例の超硬合金に関する技術を本願発明の高速度鋼に応用することに格別困難性はない旨主張する。

しかしながら、高速度鋼と超硬合金とは切削工具等工具鋼として主に用いられる点で共通するとしても、その組成に顕著な差異があることは前記認定のとおりであり、本願発明と第2引用例記載の発明とはその目的を異にすることも前記認定のとおりである以上、第2引用例の超硬合金に関する技術を本願発明の高速度鋼に適用することが容易であるとはいえない。

3  以上のとおりであつて、本願発明と第1引用例記載の発明との相違点(1)(中間層をTiNとした点)について、第1引用例及び第2引用例の記載事項に基づき、高速度鋼を母材とする切削工具にTiCを被覆するに際し、中間層として予めTiNを被覆することは、当業者ならば容易に想到し得る事項であるとした審決の認定、判断は誤りであり、その余の取消事由について判断するまでもなく、審決は違法として取り消されるべきである。

3  よつて、審決の違法を理由にその取消しを求める原告の本訴請求は正当としてこれを認容することとし、訴訟費用の負担について行政事件訴訟法第7条、民事訴訟法第89条の各規定を適用して主文のとおり判決する。

(蕪山嚴 竹田稔 濵崎浩一)

〈以下省略〉

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例